朝晩の冷え込みと昼間のギャップ。
その昼間も涼しかったりしますよね。

そんな(どんな?)今回は、お酒についてでは無く
お酒に関係した人について書きたいと思います。

 

日本の地を踏んだ、最初のスコットランド人は誰だか分かりませんが
幕末から明治にかけて、日本の近代文化に貢献した最大の人物といえば

トーマス・グラバー(1838~1911)
をおいて他には居ないだろう。

グラバー家の出身は、北海油田の基地として知られるアバディーン。

当時のアバディーンは造船の町として栄え
中国やインドから紅茶を運ぶ快速帆船が港内でマストを揺らしていた。

早くから東洋に憧れを抱いていたグラバーが
ジャーディン・マセソン商会の代理人としてやって来たのは
安政6年(1859年)、21歳の時であった。

日本の近代化のためには幕府ではなく、長州や薩摩、土佐といった
維新勢力であると見抜いたグラバーは
2年後の1861年にグラバー商会を興すと積極的にこれを支援。

幕府の禁を犯して伊藤博文や森有礼らをイギリスへ留学させた。

日本で最初の炭鉱(高島炭鉱)を開いたのもグラバーであり
意外なところでは、後にキリンビールとなった
ジャパン・ブルワリー社を創業し、日本で最初にビールを作ったのもグラバーであった。

維新後は数多くの留学生がイギリスに渡ったが
スコットランドに赴きスコッチの作り方を実地に学んできたのが
ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝(1894~1979)であった。

広島の造り酒屋の息子として生まれ、摂津酒造で洋酒の担当として働いていた竹鶴が
単身、スコットランドに留学したのは1918年、26歳の時である。

グラスゴー大学で学ぶかたわら、ロングモーン、ヘーゼルバーンなどの蒸留所で実地に訓練し
2年後の1920年に帰国。

帰国に際しては、スコットランド人妻、リタを伴っていた。

 

 

その竹鶴がサントリーの前身、寿屋洋酒店の鳥井信治郎に請われて
山崎の地に国産第1号蒸留所を建設したのが1923年。

その後、竹鶴は北海道の余市に移り、そこでニッカの蒸留所を創建している。

グラバーが日本のビールの父だとすれば、竹鶴は国産ウイスキーの父と言っていいだろう。

因みにグラバーも、リタも終生を日本で過ごし、日本で没している。

トーマス・グラバー竹鶴政孝、この2人が居なければ、普段、皆さんが飲まれている
ビール、ウイスキーの味も今とは違っていたかも知れません。

 

今宵はこの辺りで・・・

岡山バー、中央町バー、岡山、朝までのバー
イングルヌックマスター(愛称たけちゃん)若干50歳でした(^-^)

 

 

 

 

 

 

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